ねこのあな


― 森のねこのたわごと ―


西瓜怖い

昨日、久しぶりに頂き物の西瓜を食べました。もう、じつーに久しぶりに。
何を隠そう、私は西瓜が苦手です。

かつて私の実家では、毎年夏になると、ものすごい数の西瓜を食べていました。いや、食べさせられていました。西瓜の赤い実と皮の間の薄緑色の瓜のような部分をお漬け物にするためです。父がこれを大好きだったため、ひどいときには先に皮からなくなってました。(つまり、切り分けられた赤い部分がお皿に盛られて冷蔵庫に入っている状態。西瓜好きなら大喜び?)
そんなふうにたくさん食べさせられたから嫌いになったのかというと、別にそうではありません。だいたい私はあまり食べなかったし。(残ったのは母が片付けていた)
それ以前から怖かったのです。種が。
そう、私が怖いのは西瓜の種なんです。

さらに遡ることしばし、それは私が小学校2年か3年のときのことでした。
ちょうどその頃、怪奇漫画が流行っていましたが、怖いものやおどろおどろしい絵柄が苦手な私は、表紙を見ることすらできずにいました。いや、触ることも嫌だったくらい。
そんな私に、ある日怖い漫画が大好きな友だちが「これなら怖くないから」と1冊の怪奇漫画を貸してくれました。彼女にすれば、読みもせずにこんな面白いものの良さを認識しないなんてもったいないという気持ちだったのでしょうし、ちょっとは興味のあった私にとっては、新しい世界へのささやかな勇気の発露だったと思います。私だってもう恐がりの子供じゃないんだモン!ってな感じの。(笑)
雑誌の付録の小さな本でしたが、この漫画がその後の私の食物の嗜好を変えてしまったのです。(おおげさー)

それは、こんなストーリーでした。
ある可憐な少女の体調が悪くなり、病院で虫垂炎との診断を受けた。なんだ、それなら簡単な手術で解決する、よかったと喜ぶ主人公とその回りの人々。
しかし、手術室で少女のお腹を開いた医師が見たものは、お腹一面に広がる緑の植物だったのだ。しかも、それは恐るべき勢いで伸び、医師までもを捕らえ侵食していった。医師の最後の言葉は「こ、これは西瓜だ!」だった。そう、少女は西瓜の種を飲み込み、それがお腹の中で芽吹いて意志を持ち彼女を侵略していったのだった!恐るべし、西瓜の種!!

笑っちゃうでしょう?
いや、お話には更に続きがあったし(手術室の葉っぱのイメージで吹き飛んで憶えてナイ)、もしかしたら西瓜は葡萄だったかもしれないんですけど(と思うので、私は葡萄の種も怖い)お腹を開けたら葉っぱだらけだったというキモチ悪いシュールな絵は今でもはっきり憶えています。そのくらい、当時の私にはインパクトが強かったのです。
それ以来、私は異常に神経質に種を選り分けるようになりました。そして、わりと好きだった西瓜自体もあまり食べなくなりました。実家を出て自分で食べ物を選べるようになってからは、ほとんど食べてないんじゃないでしょうか。葡萄だって種無しじゃないと嫌だし。
つまり、私の果物に関する嗜好は、西瓜恐怖漫画以前と西瓜恐怖漫画以降にはっきりわけることができるのです。

今思い出すと、絶対この話怖くないし(怖くないよと言った友だちの感性の方が正しいと思いマス)むしろおかしくて笑っちゃう、ハズなんですけど、私はやっぱり西瓜や葡萄の種が怖いんです。
トラウマってそうしたもんなんでしょうか。でも、原因がわかれば怖くなくなるって言うじゃないですか。私、全然怖くなくならないんです。今でも「この種をうっかり飲み込んだら、お腹の中が西瓜だらけに...」という絵つきのイメージがどーんと迫ってきて、何があっても種を飲み込むまい、と死ぬほどアホくさい決心をしてしまう私なのでした。

西瓜の種が怖い人、他にもいません? 私だけ?

2002年7月25日

私の夏休み

朝晩は寒いほどの山の家でのーんびり休んで戻って来たら、かなり涼しくはなっているものの暑くてバテてます。昔も暑かったけど、こんなにいやらしい暑さじゃなかったような気がします。なんて、年寄りくさいな。(笑)
山の家では、ほとんど何もしないでくま作りとねこたちとのお遊びをしていたのですが、夏休みらしいイベントもありました。
つれあいの仕事の関係で、諏訪の花火大会に招待されたんです。

諏訪の花火大会は有名で、とても大勢の人が集まります。諏訪湖のまん中からあげる花火は、盆地であることもあり、響き渡る大きな音では日本一だそうです。実際ドーンという音はお腹にひびくんですよ。

昨年もお招きにあずかり出かけたのですが、車は混むだろうからと電車にしたところ、帰りの駅では改札制限され、人であふれかえっていて大変でしたから、今年は車で行くことにしました。早めに出れば大丈夫だろうと考えたのです。ちょっとくらい渋滞しても、車の中にいる方が快適だろうとも思って。
夏場、暑い中で汗をかいた薄着の人たちが押し合いへし合いしてるのって、かなりの苦痛ですよね。

行きは早めに出たし、地元の人しか通らない道だったので40分ほどで無事着きました。招待してくださった会社の敷地内に駐車させてもらい、お夕飯をいただいてから桟敷席へ。
諏訪湖の回り全体に人がいて、ずらーっと屋台が出ています。屋台にも流行りがあるみたいで、今年の流行りは「牛くし焼き」と「スポンジでできた犬のおもちゃ」でした。
7時に市長さんの点火で始まった花火は素晴らしく、風の向きも良かったため(こっちに風が吹くと煤が落ちてくるんです。無風だと煙りでよく見えなくなるし)大きな音と美しい花火を堪能しました。
パンフレットによると、花火は8時45分に終わる予定になっています。人出と駐車場までの時間も考えると、早く出ないとまずいんじゃないか...と私は8時頃から心密かに焦り出していたのですが、せっかくのご招待だし、と我慢の末、8時半になったところでお礼を言って辞しました。

ところが、湖畔の桟敷席を出てびっくり。通路に恐ろしい数の人がいるのです。桟敷席に入れない人もたくさんいるだろうとは思っていましたが、これほどとは思っていませんでした。
お正月の鎌倉八幡宮を思い出しながら、まだ続いている花火を見ている人たちをかき分けながら駐車場へ向かいましたが、道があやふやで。
方向音痴の私は(えー、違うような気がするけどなあ、ここで左折だったと思うんだけど...)と心の中で思いつつも、道に関しては絶対の信頼があるつれあいについて行きました。この頃には帰り始める人が大きな流れを作っていて、スピードは落ちる一方です。
途中、食事をとったホテルを過ぎるときに「トイレに行く?」とつれあいに聞かれましたが、その5分の差で渋滞がひどくなることがわかっていたので断りました。これが後々ひびくんです...。

9時前にようやく車まで辿り着いて出発させた頃には渋滞が始まっていました。まだ始まったばかりのようで、少しずつですが動いています。帰り道に出るためには右折が必要でしたが、そちらの道はもう動かなくなっていたため、焦れたつれあいは左折しました。途中で方向をあわせればいいからということでしたけど、(いや、ちゃんと右折した方がいいと思うなあああ...)と私は密かに思っていました。
案の定、左折して10メートルくらい進んだところで、車はぱったり動かなくなってしまったのです。ほんとに全く動きません。皮肉なことに、さっきまで動かなかったから避けた反対車線は少しずつながら動き始めたではありませんか。

ここで車が止まること、なんと2時間半
ラジオをつけると、モーニング娘。のオールナイトニッポンスペシャルというのをやってました。これ、丸まる聞くことになるんですけどね。
渋滞の通り沿いにコンビニエンスストアがあり、大盛況でした。さっきトイレに行かなかったから、あのコンビニに行っといで、この後そういうところはないから、とつれあいに言われて車を降りてコンビニに行きましたが『本日トイレは使用できません』とのつれない貼紙が.......。しかたなくお茶を買って戻ると、車はエンジンが切られ、もとと寸分違わぬ位置にありました。(笑)
そして、私の尿意との戦い(大笑)が始まったのです。

この頃の私はまだ余裕がありました。あまり水分もとってませんでしたし。むしろ、つれあいの方が我慢できなくなって、車を降りて狭い路地で用を足してきちゃった(オイオイ)くらい。
こういう時って、女は不便だよねー、男みたいに簡単にいかないもんね、スカートならまだよかったけど、ジーパンだからお尻丸出しだもんね、なんて、笑い話をしてましたが、時間は無為に過ぎていくし、車が動く気配もないし、やだなあ、我慢できなくなったらどうしようと思い始めた頃、つれあいが「そうだ、ねこトイレがあるよ!」と言い出しました。
我が家の愛車はねこ仕様で、仕切られたラゲッジスペースにはねこトイレも積んであります。彼は私にこれで用を足せと言うのです。冗談かと思ったら「いや、あれを座席に置いてさ、座って上に上着をかければ見えないから。ただの座高が高い人にしか見えないって」という大真面目な提案でした。心配してくれるのはうれしいけど、やっぱヤダしまだ我慢できるからと却下させてもらいましたけど。

11時を過ぎた頃から少しずつ車が動き始め、やっと帰る方向に向かうことができましたが、どうやら駅前を通る道に入り込んでしまったようで、駅前のロータリーのところでまた車が止まってしまいました。小さな踏み切りがあるのと、その先の幹線道路との合流のせいのようでした。
ここでも2時間の停車です。
唯一ありがたかったのは、駅前のトイレが使えたことでした。駅のトイレなんて普段絶対使いませんが、贅沢言ってられません。駅のトイレか車中のねこトイレかと聞かれたら、そりゃ駅の勝ちでしょ?
ごみはたくさん落ちていましたが、トイレ自体はきれいにしてあってホッとしました。なにより、パンパンに張っていた膀胱を空にしたときのあの爽快感たるや!

その後、なんとか幹線道路に出たら私たちの行く方向は比較的空いていて、その先はスイスイと帰りつけました。
家に着いたら夜中の2時過ぎ。
寝てるかと思ったら、意外にも心配そうに待っていたねこたちに遅いご飯をあげて、シャワーを浴びて眠りました。

結局、普段40分の道のりを5時間以上かけて帰ったわけです。花火大会会場を抜ける時間も、道の選び方も、ことごとく裏目に出た珍しい1日でした。車中でこっそりねこトイレを使って人間の尊厳を失わずにすんだことは不幸中の幸いでしたが。
くたくたになった私たちが、諏訪の花火大会は充分すぎるほど堪能したから、もう行くのはやめようね、と誓ったのも当然ですよね。

2002年8月21日

コンタクトレンズ

先週末、コンタクトレンズを新調しました。なんと20年ぶりに。
度が変わっていたので、新しいレンズに慣れるまで少し時間がかかりましたが、ようやく気持ち悪いのもおさまって普通の生活になってます。

私のもう一つの目とも言えるコンタクトレンズとのつきあいは、既に27年になります。近視はそれほどひどくないのに、親からもらった乱視がひどいため、早々とコンタクトレンズにしてしまったのです。眼鏡だと、文字を読めるように乱視に度をあわせると足下が歪んでしまって、階段なんて怖くて歩けなくなってしまうからです。まるでおばあちゃんみたいに「普通に生活するときの眼鏡」と「読書用の眼鏡」を併用していました。

幸い私の目はとても丈夫で(角膜はデコボコだけど)当時の乱視用の厚くて堅いハードレンズを何時間でも装着することができ、あのキモチ悪い歪んだ世界と別れることができました。
コンタクトレンズって素晴らしい!
目医者さんの「あまり長時間装着しっぱなしにしてはいけません」という注意なんて忘れることにして、私は起きている間中ずーっとレンズのお世話になるようになりました。
あまりにもレンズに対する依存度が高いことは自分でもちょっと問題だと思っていたのでしょうか、高校の頃には、目がレンズに移ってしまうというショートショートなんて書いてたくらいです。

それほどコンタクトレンズを大事に思っていても、学生の頃には実によくなくしました。私には、下を向いていていきなり目だけで上を見るという癖があって、この「いきなり視線を上げる」瞬間にレンズが落ちるわけです。これが体育の時間の砂埃舞う校庭だと、ほぼ100%見つかりません。
学校で、駅のコンコースで、デパートで、いろんなところでレンズを落としては大勢のみなさんに探していただきました。見つかっても、傷だらけになっていて使えなくなっていたことも何度かありますし、エスカレーターで落としたときには瞬時に諦めがつきました。
そして、そのたびに親はため息をつきながら新調してくれました。あの頃、コンタクトレンズってすごく高価だったんですよね。ごめんね、お母ちゃん。
現金なもので、自分で働くようになるとなくさなくなりましたケド。

その間コンタクトレンズはどんどん進化し、何度か新しくて目によさそうなものに替えようとしましたが、ソフトでも酸素透過性でも私の乱視は矯正できず、結局非常にプリミティブなハードレンズのままでした。しかも、昔は正しく検眼するためにしばらくレンズを使わずに来てください、と言われたので、それも問題でした。レンズを使わずに生活するのって難しかったもので。

そういう訳でここ10年、ずーっと「レンズを新調しなきゃ」と思い続けていたのが、先週の土曜日にフラッと入った眼鏡屋さんであっさり叶ったのでした。

レンズははずしてすぐに検眼してもらえたし(機械で診てもらえた)酸素透過性のレンズで私に合うものがあったし、昔は取り寄せになっていたレンズもすぐにあって、そのまま帰宅することができました。技術革新ってすばらし〜!

で、今回のレンズの新調でわかったことは、視力が変わっていたこと。確かに最近度が合ってないなあ、と思ってはいたのですが、なんと、度が弱くなってました。
「えっ、老眼ですか?!」と叫んでしまいましたが、さすがにそうではないそうです。よかった。それでも、やっぱり加齢のせいで老眼に向かっているのだそうでした。そして、度の強い今のレンズを使い続ければ老眼になるのが早まったでしょう、検眼してよかったですよと言われました。ひゃー。
更に、20年使い続けた古いレンズは傷一つなくきれいな状態だそうです。昔のものは丈夫で長もちするんだそうで、新しいレンズは3年くらいの寿命だと聞かされました。レンズケアもずっと面倒だし。古いレンズで使っていた研磨剤入りのクリーナーなんて絶対使っちゃだめですよーと念を押されました。
また、古いレンズだと、はずしてすぐに眼鏡をかけてもよく見えないけれど、今度のは平気です、とも言われました。ほんとかなー、と思いながら夜レンズをはずしたあとに眼鏡をかけたら、ほんとにちゃんと眼鏡でも見えました。ちょっと感動しました。(笑)
うーん、やっぱり20年の間にコンタクトレンズは進化したんですね。でも、レンズ洗いはめんどいでーす。

2002年9月10日

名前の話

私の名前は、少しばかり変わっているけど、まあ普通です。
で、それほど可愛くありません。
これが小さい頃嫌でした。

私の名前は『奈保子』で、そのまま『ナホコ』と読みます。これ、正しく読んでもらえたことはありません。絶対『ナオコ』。小学校の頃から、先生が変わって最初に出席を取るときには毎回訂正してました。
『ナホコ』というのが発音しにくいというのもあります。親ですら普段は『ナオコ』と呼ぶくらい。(なら『ナオコ』にしろよ〜って気も...)
関係ないですけど、昔運転免許の振り仮名は1文字につき1種類しかなくて、『保』は『ヤス』だったので、『ナヤスコ』になってました。ナビスコみたい。

更に、「漢字に意味がない」というのも嫌でした。小学校で漢字を習いはじめると、「由美子ちゃんは自由で美しい子だね」とか「智子ちゃんは智恵がある子なんだ」と名前の漢字の意味を調べたりしましたが、『奈』には別に意味がないようで面白くありませんでした。奈落の奈だし。それより、刹那の那の方が私の性格にはあっている気がしました。はは...。

同じ意味がないならもっとステキな名前がよかったよー、と思っていました。心の底から。
そして、親なんてセンスないんだから、幼名だけ親がつけて、後は育ってから自分で名前をつけることにすべきだ!と真剣に考えていました。
だって、私の親ときたら「最初は、近所のすごく可愛い子と同じ『美保子』にするつもりだったけど、生まれてきたら、こりゃ美保子ちゃんに悪いよ、って『奈保子』にした」とか「本当は阿修羅の阿の字が好きだから『阿保子』にしたかったけど、アホコじゃさすがに可哀想だから『奈保子』にした」なんて子供の私に言ってたんですよ。ひどい。(そして結構アホコとも呼ばれていた......)
でも、そういう制度でなくてよかったです、ほんと。つける年齢によっては恐ろしく恥ずかしい名前になってしまうところでしたから。

ジュニア小説出身のある女流小説家の人のペンネームって、まるで可愛い名前を二つつけたものなので、キャッ恥ずかしいわね、と思っていましたが、彼女と同窓生の元夫から「本名はイネコ(ムギコだったかな)っていうんだよ」と聞いたとき、心から同情して彼女の気持ちがよくわかりました。
みんな同じような気持ちなんだなあ、だからこっぱずかしいペンネームがいっぱいあるんだなあ、と納得したものです。
また、ハンドルネームなどで『**ママ』が多いのもそのせいかなって思います。子供の名前を使うのって、子供の名前には自分が好きなものをつけてるからじゃないかなあ。

『奈保子』という名前でよかった、と初めてしみじみ思ったのは大学生になった頃でした。家庭教師のバイト先を紹介してもらいに恩師に会いに小学校に行ったときのことです。可愛い子供たちがたくさん遊んでいたのですが、中に『あんぬ』というすてきな名札のついた子がいました。一重まぶたの完全な日本人顔の。
私には『あんぬ』は絶対似合わない、平凡な日本人である私には平凡な日本人の名前が一番合っているのだ、と実感しました。そして、仮に私に子供が生まれても、同じように平凡な日本人なのだから、ごく普通の日本人の名前をつけようと思ったものです。

それから改めて大きな漢字辞典で調べたら『奈』の字に意味があることがわかりました。「あかなし」というりんごの一種なんだそうです。
「森の中で果物を保ち育てている子」
そう考えたとき、自分の名前が大好きになりました。

大きくなって改めて親になぜこの名前をつけたのか聞いたら、定かな理由は聞けませんでしたが(忘れたのかも(笑))初めての子だったから、ノート1冊くらい名前を書き出して決めたんだと聞かされました。祖父から『千鶴子』にしろと言われたけれど、自分たちでつけるからと断ったんだとも。確かに『千鶴子』は繊細できれいすぎて私らしくないです。
私らしいと言えば、『ナオコ』の滑らかさも違うのです。『ナホコ』という、ひっかかりのある発音しづらい名前こそがぴったりな気がします。
名は体を表すというのは本当かもしれませんね。

2002年10月3日


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